5月24日(日)舞台 「幕が上がる」の大千秋楽 をライブビューイングで観ました。
この舞台の一番の見所といえば、やはり百田夏菜子がどう演出家という役に向き合えるかだと思う。
表面的には高校演劇を舞台にした青春ドラマであるが、この作品の原作、脚本は劇作演出家である平田オリザであり、高校生とは言え演出家を主人公にした舞台を作る訳なので、ある意味 私小説的な舞台なのだ。
やはりこの舞台をライブビューイングという空間を共有しない傍から見ると、マスターベーション的な表現や場面、台詞を多々感じる。
これは悪い意味ではなく、観客と演者が限られた空間の中で空気を共有する、演劇においてはむしろどれだけマスターベーションする(さらけ出す)かが観客との距離をどれだけ縮められるかということでもある。
では、夏菜子はこの舞台で演出家という役を自分のものに出来たのか?
それは、残念ながらまったくもって掴めていなかったと感じた。
まず、まったく台詞が心に響いてこない。
歌では、少なくとも僕が生でステージを見た事がある数百人(もしかすると千人を超えてるかも?)の歌い手の中で、最も人の心を動かす人である夏菜子の舞台で発した台詞がまったく心に届かないのはどういうことなんだろう?と疑問に思った。
最初は演技が下手だから上手く表現出来ていないのか?(演出家として他の人の演技に注文をつけている姿がコントに見えるくらいで・・・)と考えたが、へたくそな歌でも人の心を動かすことの出来る夏菜子にとって、それはまったく当てはまらない事だろう。
ではなぜ夏菜子の台詞は心に届かないのか?
それは、夏菜子がさおりになれなかったからだと思う。
映画 「幕が上がる」から、一年間付き合ってきた さおり だが、結局 夏菜子はさおりと一つにはなれなかったようだ。
まあ、不器用な夏菜子のことだからこんな結果も想像の範疇ではあったのだが、この公演はトータル27公演あったらしい・・・ 流石にこれにはびっくり!(笑)
この舞台の演出をした本広克行さんも、舞台初日には役が掴めていなくても、公演が進むにつれてだんだん夏菜子とさおりが仲良くなって、千秋楽には夏菜子とさおりがひとつになった姿を見せてくれると思っていたのではないだろうか・・・
まあ、ここまで酷評ともいえる事を書いてきましたが、今のそのままの姿をさらけ出すのがももクロの魅力とすれば、さおりと上手く付き合えない夏菜子の姿も、ももクロらしいと言えるのかもしれません。
願わくば、毎年この「幕が上がる」を再演して頂き、再来年くらいにはさおりと上手く付き合えるようになり、本当の意味で幕が上がった舞台での夏菜子の姿を見たいな~と思ったりします。